おそらく日本で唯一やと思うんですけど、30歳以上の人向けにやっている変わった道場ってウチだけなんじゃないかなと思います。

そんな道場をやろうと思ったくらいなので、いつも「ええ大人になってから、わざわざ武道や格闘技を始めよう」あるいは「もう一度、挑戦しよう」と思う人って、「何を心の中に持っているんだろう、一番の動機って何かな」というのをよく考えています。

他の記事にも書いていますが、自分が始めた頃は武道や格闘技はたいていは若者がやるもので、道場やジムは若い人や選手が中心でした。だから、大人、二十代後半にもなると入門する人って少なく、いたとしてもあんまり相手にされていないのが実情という感じでした。

そういう姿を見ていて、僕は心が痛かったんですよね、いつも自分自身と重ね合わせてしまって。僕自身は年齢は若かったけど、体格にも才能にも恵まれなかったから、最初の頃は先生や先輩にはなかなか目をかけて貰えなかった経験が大きいと思うんですけど。

若い時は、格闘技に限らず、有名アスリートやアーティストが脚光を浴びる姿の様な表面的な部分に惹かれる事も多いですよね。本心ではその奥にある真の強さや美しさに憧れているはずなんですけど、若い内はなかなか自分ではそこまで気付けない。

でも、社会に出て仕事をしながら色々な事を見聞きしていく中で、人間的にも成長してくると徐々に物事の見方も変わり、自分自身が本当に求めていることにも気付き始めてくる。

このまま、ただ仕事だけでいのか?

他にもっとやりたい事があったんじゃないのか?

そういう、もう一人の自分の声が聞こえてくる。

僕自身は15歳で空手の道に入ったので年齢は子供でしたけど、その時の動機は大人の人の動機に近かったんですよね。

人生を生きていく上での、一番土台、基礎となる本当の意味での自信(他者との比較によるものではない真の自信)が欲しいと思っていました。そういう精神的なものに飢えがあったんですよね。

特に強く望んでいたのが、「自分自身の心と体をコントロールする力を身につけたい」というものでした。人生を生きていく上で、これは絶対に欠かせないものじゃないかと考えていました。

今も自分自身の大きなテーマでありますが、「自律」ですね。自分を自分でコントロール出来る強さ、能力、律する心というものに魅かれていました。子供の頃から、仙人や悟りを得た宗教家みたいな超越的な存在に憧れがあったんですよね。

ですから、極端に言えば宗教でも良かったんですが、「ちょっと宗教は胡散臭いかも?」っていう部分と、「やっぱり体も鍛錬して、心身を共に鍛える方が本物なんじゃないか」という想いがあり、武道になりました。

武道の修行を通して、東洋的・日本的な思想、心身一如・共存・自他協栄・自他同一とかいった昔から伝わる言葉の意味を体で理解したい、体得したいという想いが強かったのです。子供のクセに年寄りくさいというか、ちょっと変わった性格やったんですよね。

若者ではなくなった頃、もう大人になってから始める人になると、こういう内面的な部分が強いと思うのです。30歳を越えてから始めて、「試合で活躍したい」とか「ガンガン稽古して若者にも勝てるようになりたい」とか思う人ってあんまりいませんもんね。

ほとんどの人が、もっと内面的な何か、自分の内側へと向かっている動機だと思うのです。

実際、自分が若者であった頃、そういった大人になってから始める人を見ていて、僕は「自分が求める何か?」と共通するものを求めている人達だなと感じ、魅かれるものがあったんですよね。

それでそういう人によくキックミットを持ってあげたり、稽古の後に話し込んだりしていました。僕はその頃、二十歳過ぎの若造なので、そういう大人の人は可愛がってくれて、ご飯をご馳走になったりしました。仕事や社会での色々なお話を聴かせて貰って、今でも本当に宝物みたいな素晴らしい思い出になっています。

今になって振り返ってみると、その人達は、今の僕よりもずっと若いんですよね、二十代後半とか三十代前半の方達が多かったです。

稽古後に一緒にご飯を食べたりしながら、その動機を聞いてみると、「若い時、本当はやりたかったのに、やる前に諦めてしまった」とか「昔、やっていたのに仕事と稽古の両立が辛くなってきて、辞めてしまった」、でもそれがずっと心に引っ掛かっていて、「このままやりたい事を諦める人生はイヤだった」「自分の弱さから逃げない人間になりたい」という様なものでした。

「ああ、自分と一緒なんやな、人間ってやっぱり最後はそういう部分が心に引っ掛かり続けて、逃げられないんやな」と思いました。

そして、「こういう人間として“真っ直ぐに生きたい“と願う人達の力に少しでもなれたらいいな。自分がいつか道場を持てる様になったら、こういう人達を大切にしたい」と強く思う様になりました。

人ってお互いの想いが重なるというか、響き合った時に、先ほど書いた「心身一如・共存・自他協栄・自他同一」みたいな感覚が、本当の意味で理解出来るというのか、心の底から湧き上がって来るんだろうなと思います。道徳の授業で習って、頭でだけ理解したって無理ですよね。

スピリチュアルな表現でいうとシンクロニシティ(共時性)っていうのも、そういうものじゃないかなって気がします。僕が何かを感じた時、相手の心も同じ事を感じて、「ちょうどその事についての電話がかかってきた」みたいなもの。

あの頃、僕が色々な大人の人達から感じ学んだ事は、その後、僕の心の中で熟成され、醗酵し、それが湧き上がってきた頃に僕が道場を始めて、その想いにシンクロした人が集ってきているのかもしれません。

もしかしたら、これはあの頃に接していた人達からのプレゼントかな、とも思ったりもするし、そういう人の想いを自分は受け継いでいるのかな、と感じる事もあります。

それぞれの人達の想いや動機が重なる時期が来て、人は出逢ったり、何かを始めたりしていくのかなと思います。お互いの想いが共有出来る様な素晴らしい場をつくっていけたらいいなあと思います。

投稿者プロフィール

岡本
岡本マーシャルアーツアカデミー代表・空手クラス担当
東京の大手フルコンタクト空手の道場で長年修行。
空手修行の一環としてボクシングやキックボクシングも学び、プロライセンス取得・試合も経験。
道場での指導の傍ら、ボクシングトレーナー、フィジカルトレーナーとしても活動しています。
最新記事一覧
スポンサーリンク