空手に限らず、人が何かを学ぶ際に土台となるものがある。

実際に何かを経験した事があるか?

そして、そこで困ったり、疑問に感じた事があるか?

これがある人は、吸収力が違うんですよね。この困った経験、疑問を感じた経験がない人は、頭で理解しようとするから、なかなか吸収出来ない。

人に教えていて、これはいつも本当に感じる事ですが、そういった土台となるものについて分かりやすく書いてあるいい記事を読んだので、紹介したいと思います。

こちらの記事。

    ↓

「勉強できる子」が理解力と記憶力が良いのは「知識のネットワーク」が準備されているから

 

 

「勉強できる子」は一度説明しただけで理解し、覚えてしまう。一方で、「勉強の苦手な子」は覚えることも理解することもできない、このことで「頭が悪い」と決めつけることは違うという意見が反響を呼んでいます。

「勉強できる子」は一度説明しただけで理解し、覚えてしまう。「勉強の苦手な子」は一度説明しただけでは理解できず、覚えることもできない。なんなら同じ説明を何度もしても理解できない。この現象をもって「頭が悪い」と決めつけてしまう「勉強のできる人」は多い。しかし私は見解が異なる。
観察してると「勉強のできる子」は、その言葉を聞く前にすでに知識のネットワークが準備されている。電流の話を聞く前に、モーターや電球の仕組みだとかに興味を持ち、すでにある体験ネットワーク、知識ネットワークの結節点の一つにその名称をあてはめるだけ。だからすんなり覚えてしまう。
ところが「勉強の苦手な子」は、体験ネットワークがすっぽり抜けてしまっていることが多い。花をマジマジ見たことがないし、電気のオモチャを分解したりしたことがない。見たことも聞いたこともないことを突然聞かされても面食らうだけだし、何度説明されても体験と結びつかず、理解できない。

これ、本当にそう思います。実体験がない人は、脳内でイメージが湧かない、湧きようがない。人はイメージ出来ない事は、出来る様にはならないのだと思う。脳の中に、今教わっている事に対するイメージが何となく湧く様な感じっていうのかな?それは別に具体的なハッキリとしたイメージでなくてもいいと思うんですよね、抽象的でもいいからイメージの世界が広がっていないと、新しい事が頭に入って行かないんだろうなと思うんですよね。

私は、知識とは、知の織物「知織」だと考えている。他の知識と断絶した知識はない。
たとえば「鉄」を理解するには、真夏の太陽に照らされた鉄は火傷するほど熱いといった体験や、逆に冬には凍てつくほど冷たかったり、電気が通ったり、フライパンを熱して湯気が出たり、磁石がくっついたり。濡れるとサビたり。包丁のような刃物になったり。
そういった諸々の周辺的事実の結節点として、私たちは「鉄」を初めて理解する。知識とは知のネットワークを形成することであり、ことばを覚えるとは結節点に名前をつけることであり、理解するとは、その結節点が何とつながってるかを知ること。

これって空手でいうなら、「前蹴り」とか「廻し蹴り」とかの技を、もし全く空手を見聞きした事もなく、武道や格闘技といった概念が全くない人がいたと仮定して教えたとしたら、その脚を振り上げる動作が何をしているのか?が全く分からない、という事だと思うんですよ。

ダンスを知っている人だったら、踊りの振り付けの動作だと思うかもしれない。実際、どれだけ身体能力が高くてもアクションスター(ブルースリーやジャッキーチェン、千葉真一といった本当に武道・武術をやっていた人は除く)がやっている蹴りと格闘家が蹴る姿の違いって格闘技をやっている人には一目瞭然です。

それは、「その動きの中にこもっているもの」の違いが明確に分かるからだと思うんですよね。アクションスターも動きはメチャクチャ上手ですから。その差は、フォームが上手いかどうかではなく、「本気で相手にダメージを与えよう」として作ってきた技や動きであるかどうか?なんですよね。

攻撃にしろ、受け技にしろ、「頭で理解するのではなくて、体で理解しているか?」が動きや表情の意味を根っこから変えてしまう。一度キックミットを持って空手や武道経験者の蹴りを受ければ、「蹴られるとどれ程のの衝撃を体が受けるのか?」が理屈ではなく、体で理解出来る。

この実体験が伴うと、その役者さんの振り付けも演技もガラリと変わるはず。恐怖の表情は迫真の演技になるだろうし、闘っているシーンの演技はまるで違うものになると思う。「しっかりと受けないと、あれだけの技の衝撃を生身の身体に味わうのだ」という実体験での恐怖が、その役者さんの「心を変えた」からですよね。

相手と闘っているシーンでの表情に、「本物の恐怖感」が嫌でも入ってしまう。 これは演技では出来ないですからね。

「勉強の苦手な子」が、説明を一度されただけでは理解できなかったり、場合によっては何度説明されても理解できないのは、その言葉を受けとめるべき体験ネットワーク、知識ネットワークが欠如してるから。何も受け手のないところに投げても落ちるだけ。大切なのは、受けるネットワークの構築。
別の旧帝大の学生は、サイホンの原理を知らなかった。「お風呂の水をホースです吸った後、外に流す遊びやったことない?」と聞くと、ないという。これでは理解できないと思い、細いチューブと水を入れたビーカーを用意して、遊ばせた。水がいったん水面より高く上がることに驚いていた。
つまり、頭の良し悪しではない。新たな知識を受けとめるべき体験ネットワークが欠如してると、受けとめようがない。素通りしてしまう。勉強できる子も勉強の苦手な子も、新知識を受けとめられる体験ネットワークが欠如していれば、さっぱり理解できない。何度聞いても首を傾げることになる。
だから、大切なことは教えるよりも体験させること。不思議な思いに浸ること。不思議に思えば興味関心が湧き、観察し、その仕組みを知ろうとする。体験し尽くし、体験ネットワークができあがった時にそれぞれの結節点の名前を聞くと、一度で覚えてしまう。「ああ、あれはそんな名前だったのか!」

まさにこれ!なんですよね。

人が成長する瞬間。何か掴む瞬間って。人を指導していて、この瞬間ってハッキリ分かるし、指導者の醍醐味ってこれやと思うんですよ。教える側と教わる側が、ある種の感動を分かち合える瞬間。今、これを書きながら、今まで味わったこの瞬間の記憶がどんどん湧いてきて、感動をもう一回味わっていますからね~。

そして、最後に書かれている以下のエピソードの部分は感動的です。

和歌山県すさみの海で、海水浴を終え、帰ろうとする親子が。「ここ、星がきれいですよ。予定がないなら星をご覧になってからでどうですか?」と誘った。 夜になり、空を眺めた。若いお父さんが「残念、曇ってますねえ」。 「何言ってるんですか、これ、全部星ですよ。カスミの一つ一つが星」

信じられない様子なので、海岸線に浮かぶ雲と比べて、「星の雲」が動くかどうか比べてもらった。「本当だ!これ、みんな星なんだ!」ご両親、驚きのあまり言葉を失って星空を見つめ続けた。五歳くらいの男の子も、どうやら大変なものを目撃してるらしいと、マジマジ空を眺めた。「あそこ、一つだけゆっくりと動いてる星があるでしょう。あれ、人工衛星」 「え!人工衛星って見えるんですか?」 「あそこは地球からずいぶん離れてるから、まだ太陽に照らされて反射してるんですかねえ」 「へええ!」親が驚いてるもんだから、子どもも興奮しながら眺めてる。

「星ってむちゃくちゃ遠いから、何年、何十年もかけて光が届いてるんですってね。今見てる光は、何百年も前のものだったり、もしかしたら見えてる星の中には、今はもう爆発してないものがあるかも」 「見えてるのにもうないなんてことあるんですか!へええ!」 ますます大変なもの見てる感じの子ども。
その親子は私たちが寝ることにしても星空を眺め続けた。翌朝私たちが帰ろうとすると、その親子は「もう一泊して星を眺めようと思います」と言った。 私の下らない星の解説より、このお父さんお母さんは、子どもに大切なものを伝えていたように思う。自然の不思議さ、神秘さに目を瞠り、驚く感性。

何時間も飽かず星を眺めた体験は、知らず知らずのうちに体験ネットワークを形成することになる。以後、星や宇宙のことを取り上げた番組や記事にはすぐ子どもは食いつくようになるだろう。こうして体験ネットワークはさらに強化され、知識ネットワークへと延伸していく。拡大していく。

この子は、この時の感動は忘れないですよね。細かい話は忘れても、物凄く感動したという想いは一生忘れないと思う。この感動が新しい事を知りたい、まだ自分が知らない事を知りたいという想い、学びたいという純粋な想いを育てていくんだと思う。

大切なのは、知識の量ではない。興味関心の強さ。興味関心が湧けば、無意識は自然に体験ネットワークを形成してくれる。そのネットワークさえできてしまえば、「なんだ、あの体験はこんな風に呼ばれてるのか」と、名前を結節点にあてはめていくだけ。大切なのは、知識を受けとめる体験ネットワーク。

体験ネットワークの形成を促すのが、「驚く」こと。親である大人自身が驚き、不思議がり、興味関心を持てば、子どもも、ナンダナンダ?と興味津々となる。 自然や生命の神秘さ、不思議さに目を瞠り、驚く感性。センス・オブ・ワンダーこそが大切。
私が子どもたちの失敗に驚き、楽しむのもそのため。失敗は想定していたことと違うことが起きた現象。ということは、事前に察知できなかった何かがある。それに驚き、面白がれば、子どもも自然と不思議がり、面白がる。すると失敗からメカニズムを推定し、新たな手を考え出す。

失敗をしゃぶり尽くすように観察することは、体験ネットワークを形成する一つの方法。危険がないなら、わざと失敗させるのは手。その周辺の知識を受けとめられる体験ネットワークを形成するのに、失敗は素晴らしい体験。

学ぶ際に、「感動が大事」、「失敗が大事」とよく言われるのはこういう事ですよね。

つまりは体験を通して感動したり、失敗をした時こそ、「心が一番大きく動くから」という事なんだと思います。だから、強烈に「学びたい」と思ったり、「これは絶対に必要だ。これを手に入れて、次は絶対に失敗しないぞ!」という想いが芽生えるのだと思う。

脳にこれは必要だ!」と思わせる事。それには心が大きく動く実体験というものが必要であり、そのためには「机上の学びよりも先に、自分の体を通して実際に体験していく」という事が必要なんでしょうね。

昔の教育が優れていたのは、この部分なんだろうなと思います。とても考えさせられたし、何か温かい気持ちになる記事でしたね。本当に読めて良かったです。

僕も人に指導し伝えるのが仕事なので、書いたり話したりするのも仕事に入るのですが、自分が何となく理解している事をこれだけきちんと言語化して、相手に分かりやすく伝えるのって本当に難しいんですよねいつも指導していて、どうやったら伝わるのか?頭が痛くなるほど考えますもんね。

この方、それが出来るって本当に賢い人なんやなと思います。「知識の量が多い=単なる物知り」の人と、本当の意味で賢い人って、全く違いますからね~。本当に感動しました。

投稿者プロフィール

岡本
岡本マーシャルアーツアカデミー代表・空手クラス担当
東京の大手フルコンタクト空手の道場で長年修行。
空手修行の一環としてボクシングやキックボクシングも学び、プロライセンス取得・試合も経験。
道場での指導の傍ら、ボクシングトレーナー、フィジカルトレーナーとしても活動しています。
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