京都伏見の30歳以上限定の空手・柔術の武道道場

体格に恵まれない方や女性でも強くなりたい人を応援する理由

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「老若男女歓迎」の違和感

人間は「人から相手にされていない」と感じる時ほど、辛いものはないと思います。その判断基準が、年齢や体格、性別など、努力ではどうしようもない部分にあると、よけい悲しく、辛いものになります。なんだか恋愛の話みたいですが、仕事やスポーツでもよくある話です。

仕事は報酬を頂く立場ですので、自分のスペックが基準に見合わない場合は、仕方のない部分もあるかもしれません。しかし、自分磨きの手段として取り組んでいるスポーツや武道の場でされたらたまりません。

空手や柔術の道場の場合、パンフレットやホームページには、「老若男女、体力に関係なく誰でも出来ます!」と書いてあります。しかし、いざ入門して始めてみたら、センスのある若者だけが目をかけられて、その他大勢は放置気味……なんてことは珍しくないんです。

その他大勢とは具体的に、

・中高年以上
・肥満や低身長(その競技では不利になるような体格・体型)
・女性

などです。

誰も口にこそ出しませんが、「もう強くなれる年齢じゃない」とか、「この身長だと努力しても難しい」とか、「軽い気持ちで通ってる女の子」とか……。そうした、「実はあんまり歓迎されていない感覚」を感じたことがある人は少なくないのではないでしょうか。 何とも言えない場違い感、疎外感。自分はそこにいてはいけないような、とても寂しい感情が湧いてきます。

僕自身が小柄なほうなので、修行を始めた当初はもう毎日毎日、その空気を感じていました。キックミットや組手(対人稽古)で順番が回ってきた時に、「(あ、次はコイツか〜ハズレ)」みたいな顔をされたりするのです。被害妄想ではありません。彼らからすると、僕が相手では不足なんでしょう。

「自分はここに居てもいい人間なのかな?」 と、本当に胸が痛くなりました。 今になって振り返ると、稽古そのものの辛さよりも、この相手にされていない「場違い感」や「疎外感」のほうが辛かったと思います。

一流と呼ばれるジムや道場でも構造は同じ

長年、武道や格闘技の世界を見てきましたが、稽古から足が遠のいてしまった方々の理由に、この疎外感というのは少なくないと感じています。「その人たちは単に根性がなかっただけでしょ」といった反論を受けそうですが、それは生存者バイアスではないでしょうか。

道場に残っている人は、そうした疎外感にさらされなかった割合が高いから、指導者側も気が付きにくい部分だと思います。僕自身は何度も嫌な思いをしながらも、何とかしがみついて残っていました。とはいえ、特に相手にされていた訳ではなく、ずっと悔しい思いはしていたので、高校を出てからは(そんな差別のない)一流の道場やジムで修行をしようと上京しました。

でもやっぱり疎外感は一緒。最初は「全く相手にされず」でした。後輩でも体格がよかったり才能のある人間はどんどん教えてもらえるのに……。毎日毎日、地味にコツコツ努力することで、何とか自分の居場所を作っていきましたが、精神的には非常に辛かったです。

その頃に味わった悔しい気持ちが、当道場をまずは30歳以上に限定してスタートしようと思ったきっかけです。僕の場合は「体格のなさ」でしたが、「年齢を重ねた方」や「女性」が同じような扱いを受けているのを見るのも、我がことのように胸が痛かったんですよね。

20代後半や30歳以上の方、または女性の方が「付いていけるかな・・・」なんて思いながら勇気を振り絞って入門して来られたのに、練習生やトレーナー陣はほとんど相手にしない。「何でこんなヤツが来てるんだ」という冷たい視線を浴びせる人もいたりする。

もちろん、彼らの気持ちも分からなくもありません。現役選手としてバリバリやっている人、そこを目指して頑張っているという人たちにとっては、趣味程度で取り組んでいる人が生ぬるく感じがちなんですよね。ですが、それを態度にして出すのは違うだろうと思ったのです。

同じスタートラインに立てる場所を作りたい

やがて、僕自身は試合にも出るようになり、空手では黒帯を締め、ボクシングやキックボクシングでもプロになれました。ようやくどん底から少し這い上がれた訳ですが、誰かが冷たく扱われている姿を見るのは忍びなかったのです。

「いつか自分が指導をする立場になったら、絶対にこういった人たちに暖かく接してあげよう」「きちんとその人の気持ちに応えてあげられる指導をしよう」と決めていました。 実際に指導を任されるようになってからは、その決意を形にすると、とても喜んでもらえて、教えている自分の方が幸せな気持ちになったのを覚えています。

僕の指導において、大切にしている想い、原点と言えるものはここにあります。 自分が体格面で、他の人たちよりもスタートラインがずっと下にあったこと、 そして、それに対する憤り、それが今も自分を突き動かしている気がします。

体格が大きいだけで、ちょっと才能があるだけで、道場内で大きな顔をしている人たちへの何ともいえない悔しさや腹立たしさ。いえ、その人たちは別に悪い人でも何でもなくて、普通にしているだけなのですが、その当時の僕にそう見えたのは、僕自身の妬みから来るものなのだと思います。

しかし、自分のスタートラインが彼らよりもずっとずっと下にあったのは事実でした。彼らが普通に立っている地点は、僕から見ると眩しく見えるくらいに羨ましかったし、はるか遠くに見えました。先生や先輩から相手にされていない僕は、いつも一人ポツンと道場に立っている存在でした。

本当に悔しくて悔しくて、あまりにも周囲を妬みすぎて、あの頃の僕は本当に性格が悪かったです。今でも、あの頃の自分は嫌いですからね(笑)。でも、そんな醜くて情けない想いがあったからこそ、スタートラインが下にある人、遅い人の気持ちがわかり、今のような道場を構えていると思うと、そんな逆境も神様からのプレゼントなのかもしれません。多分、自分なりに空手の道への恩返しをしたいのだと思います。

指導する側としてお約束できること

今も、昔に諦めてしまった若い頃の想い、強くなりたかった自分を捨てきれない想いを抱えたままで社会生活を送っておられる方は多いと思います。歳を重ねてから始めたけれど、疎外感を感じて行きにくくなった方。体格が小さくて、周囲からの相手にされていない空気感に耐えられず、道場を離れてしまった方。女性というだけで軽く見られ、やる気を認めてもらえなかった方。

もし、そういう方がこのサイトを見ておられたら、そして、まだ心の中にあの頃の想いが消えずにくすぶっているとしたら、ぜひこれを機会にもう一度スタートラインに立ってみませんか? もう一度挑戦してみませんか?

身体的条件を、自分より優れた人たちと同じスタートラインに持ってくるのは我々にも不可能です。しかし、その人なりの熱い想いに応えるという意味での、「指導する側の気持ち」。 そこは、同じスタートラインにすることができます。

ただし、それにはあなたの決意が必要です。 もう一度スタートラインに立つんだ!という決意。あなたの、あの頃の真っ直ぐな想いに決着をつけるのは、今のあなたしかありません。自分で勝手にあきらめてしまっているのと、挑戦してみてダメなのとでは、人生において全く意味が違ってくると思うのです。

あの時、自分は本当に頑張った。あの時の自分が大好きだ。あの時の、必死で頑張っていた自分を裏切りたくないから、今も自分は頑張れる。

おこがましいですが、こんな「熱い想いで生きていける人を世の中にいっぱい増やしたい」。我々はそんな想いで頑張っている道場です。

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